先の「生麦事件」を契機におこった「薩英戦争」後、薩摩藩とイギリス軍に交流が生まれ、維新への加速が始まります。
1869年(明治二年)、鹿児島湾に停泊中の軍艦でイギリス海軍軍楽隊を見た薩摩藩当主が、軍楽隊の演奏に魅了され、「洋式」化推進の為に指導を要請しました。これに応えた、横浜市中区山手・本牧付近にいたイギリス陸軍第10連隊第1大隊付軍楽隊の隊長より指導を受けた「薩摩藩洋楽伝習生」が「日本の吹奏楽」の始まりです。この隊長が後に日本の国歌となる「君が代」(初代)を作曲するジョン・ウィリアム・フェントンです。
当初は楽譜の読み方やビューグル(信号ラッパ)を使った練習でしたが1870年7月末(明治三年)、注文していた楽器が届くと、フェントンは週4回も伝習生の寄宿先だった「本牧山−妙香寺」に通い、32名に増員された彼等を熱心に指導しました。※1
この「薩摩軍楽隊」は連日連夜の練習の末、四十日後の9月7日にはフェントンの指揮で山手公園野外音楽堂において初の演奏会を開催します。※2これには第1大隊付軍楽隊も出演しました。
この頃の「薩摩軍楽隊」の様子は、同年、東京の越中島での天覧閲兵式に出演したときの姿を、明治の絵師「三代 広重」が東京三十六景「深川越中島」の版画に描いています。
また、第10連隊の他にも第20連隊軍楽隊等によって、この音楽堂やその下の海岸通りにおいて週に1〜2回の行進演奏や演奏会が行われ、マーチやカドリール、ギャロップなどの音楽を響かせ、一般人達も楽しませていました。彼らは、イギリス人としての凛々しさにあふれ、長身の身を赤い軍服で包んでいたことから赤隊と呼ばれていました。
フェントンから指導を受けた「薩摩軍楽隊」は兵部省の創設により、1871年(明治四年)日本海軍軍楽隊へと発展します。翌年の1872年(明治五年)には海軍省、陸軍省の創設により分立します。日本陸海軍軍楽隊となった薩摩洋楽伝習生達は海軍軍楽長※3や陸軍軍楽長※4をはじめとした要職に就くエリートになっていきました。この頃、悲しい出来事もありました。フェントンの妻、アニー・マリアが1871年5月、この横浜で40年の生涯を閉じてしまいます。今も眠る「横浜外人墓地」の墓碑には、「ジョン・W.フェントンの愛する妻アニー・マリア」と深く彫られています。この後、フェントンは第10連隊撤兵の際にも、横浜に留まることを決意し、日本海軍軍楽隊のお雇い教師として指導にあたる事を選びました。これは妻を一人異郷の地に眠らせることが忍びなかったのではなかろうかとも言われています。
※1 Far East 0716より
※2 Young Japanより
※3 海軍軍楽長 中村祐輔
※4 陸軍軍楽長 四元義豊
※5 横浜市中区妙香寺台八番地
参考資料
・「音楽五十年史」鱒書房(昭和七年)
・日本洋楽史の原典
「海軍軍楽隊」楽水会編(昭和五十九年)
協力:横浜開港資料館